学校は、主に勉強をする場所ではありますが、勉強だけをする場所ではありませんよね。
小中の9年間で、年齢に応じた様々な体験を通し、社会に出るために必要なことを少しずつ習得していける大変貴重な場です。
しかし、学校生活は、障害を抱えた子供にとって、苦しさや辛さをより強く感じやすい場面が多くあるのも事実。
現在不登校の娘が、勉強以外に、どんなことに困っていたかを振り返り、まとめてみました。
症状はひとそれぞれですので、あくまで一例として見てもらえたらと思います。
感覚過敏(聴覚・味覚・触覚)
聴覚
普段はそこまで過敏ではありませんが、不安が強くなると、比例して過敏になる傾向があります。
但し、「これから〇〇の音がするよ」などと、事前に伝えれば心の準備が出来て、過敏さを軽減できます。
入学当時、支援学級で一日過ごすことが許されておらず、入学式の翌日から交流学級がフルスタートしたことで娘の不安感がMAXに。
当然のことながら、感覚の過敏さが日々増していきました。
特に校内放送やチャイム。
ただでさえ学校という場で、過敏センサーの感度が高い状態です。
チャイムがいつ鳴るか…と思うと怖くて仕方がないと言っていました。
チャイムが鳴る前に教えてもらえないか、や、音量を下げてもらえないか尋ねましたが、「慣れてもらわないと困る」ということで、娘がイヤーマフで対処するしかありませんでした。
でも、イヤーマフをすると、今度は先生の声が聞き取りにくくなったり、装着の刺激もあまりいいものではなく、イヤーマフで学校での聴覚への過敏さが軽減することはありませんでした。
また、1年生の時は、支援級から交流クラスへの移動で、必ず音楽室の前を通らなければならず、ピアノや楽器の音が怖くて交流を拒否する理由の一つでもありました。
皆さんの学校では、特別支援学級が校内のどこに設置されていますか?
今考えると、支援級の場所として音楽室の近くというのは適切なのでしょうか…?
支援学級を検討されている方は、移動教室の時にどんな場所を通るのか、刺激になりそうな場所がないか、見学等の際に確認しておくことも必要かもしれません。
味覚
偏食なのでお弁当を許可してもらい、持参していました。
幼稚園の給食で、「一口たべよう」が出来ずに、一人居残りで食べさせられることを散々経験していた娘にとってお弁当は救いでした。
しかし、支援級でもお弁当なのは娘だけだったため、
『やっぱり、私だけみんなと同じことが出来ない…』
と、結局、自分と他者との違いに苦しむことになってしまいました。
次第に、給食の時間を避けるように4時間目で早退することが増えました。
先生にそのことを相談するも、『それなら娘さんだけ別室で一人で食べさせますか?』と言われました。
娘の気持ちを知ってもらい『お弁当でもいいんだよ。』と、娘に声をかけて欲しかっただけなんです。
私の伝え方も悪かったのかもしれませんが、大変ショックを受けた出来事でした。
昔より、給食指導は穏やかになっていると思いますが、未だに根強く残っている部分もあるのではと思います。
偏食は、ただの好き嫌いではありません。
間違っても、給食で偏食を治そうなどと思ってはいけません。
学校という、子供にとっては従わなければいけない絶対的な空間で、決して無理に食べさせるようなことがあってはならないのです。
「クラスでお残しゼロを目指そう」や「なんでも食べる子は良い子」などという言葉でさえも、偏食の子にはプレッシャーになります。
偏食への正しい理解が広がるといいなと思っています。
↓娘の偏食に関しては、こちらの記事をご覧ください。↓
触覚
普段から、洋服のタグや、ニット生地、裏起毛はチクチクするので嫌がります。
靴下も基本的に嫌いで、履かなくて良いなら履きたくないし、一年中、裸足でいたい派です。
ただ、学校は「靴下を履かないといけない場所」と理解出来ているので、時と場所に応じて我慢は出来るようです。
生活科では、あさがおなどを育てると思うのですが、娘は植物に対して強い不快感と警戒感を持っています。
お花一本持つだけでも、全身がゾワゾワするといいます。
よって、触って手触りを確かめたり、植物をよく観察しながら絵を描く、ということに対して大変精神的な苦痛を伴い拒否が強くありました。
言語表現の苦手さ
コミュニケーション
娘はおしゃべりが大好きですが、話しかけられること、そして自分から話しかけることは得意ではありません。
むしろコミュニケーションは苦手で、話しかけられることを「怖い」とさえ思っています。
これは、頭の中の言葉の引き出しから、適切な言葉を見つけ出すことに困難さがあるためと言われています。
言葉を話すことは出来るし、語録も多い。
でも、会話の中で、瞬間的に適切な言葉を判断・選択していくことが難しいのだそうです。
『自分が話した後に相手がどう返してくるか』
『自分は相手の言葉にちゃんと返せるか』
という不安が強くなり、口が動かなくなってしまいます。
酷い時は、体が固まって動けなくなってしまったり、うずくまってしまうこともあります。
『場面緘黙症』に近い状態と思ってもらえたらと思います。
名前や顔が覚えられない
学校の廊下ですれ違う先生や友達に話しかけらることは、『誰だかわからない人に話しかけられて怖い』と感じるそうです。
先生とはいえ、関わったことがなければ、「見知らぬ人」と同じ感覚なのです。
髪型が違えばクラスメイトでも区別がつかなくなります。
挨拶運動
特別苦手だったのが、朝の挨拶運動です。
1年生の娘が挨拶運動をすることはありませんでしたが、校門の前で、校長先生をはじめたくさんの生徒が大声で挨拶している前を通るのをとても怖がっていました。
大きな声もそうですし、挨拶をしないといけないというプレッシャー、更には、いつか自分もやらなければいけないかもしれないという不安。
通学帽を深くかぶり、私に顔を隠しながら昇降口へ一緒に入っていったのを覚えています。
ヘルプを出せない
そして、言語表現の苦手さがあると、特にツライのが、ヘルプを出せないこと。
Twitterではよく知られていますが、「静かに困っているタイプ」
見た目にはおとなしくしているので困っていることに気づかれにくいです。
確実に困っているのに、
「学校では特別そのような様子は見られません。」
「授業も普通に受けてます。」
と、流されやすく、子供の困り感が伝わらないことが多いように感じます。
そして、無理をするので当然帰宅後に体調を崩したり、情緒不安定になったり。
学校にそのことを伝えると、たいてい先生は子供にこういうでしょう。
困ったことがあったら
いつでも言ってね!
でも、これで言えるようになる子って、ほとんどいないのではないかなと思ったり…。
子供から言われるのを待つのではなく、「ここまでの説明でわからないことある?」などと、先生から積極的に声をかけてもらえると助かるなと思うのですが…
先生方も忙しくそこまで手が回らないのが現実なのかなと思います。
学習への影響
娘は、視覚認知と協調運動の弱さから、読み書きに困難を示しています。
まったく読めない・書けないわけではありませんが、心身共に負担が大きいです。
現在は、特に書字に困難を抱えています。
読みは目に見える困難さはありませんが、音読を拒否したり、文字の多い本を避ける傾向があるので、何かしら困難があるのだろうとは思っています。
他には、字を意味のある文字として捉えてはおらず、
記号の集合体
として捉えているところがあります。
そのため、正しい書き順でかけなかったり、文字の全体像を把握が苦手だったり、バランスよく書くことに困難さがあります。
例えば、「人」という文字。
これは2画で書きますよね。
人という字は、人と人が支え合って…というぐらいです。
しかし、娘には「人」という字は3本の線で成り立っているように見えています。
真ん中から三本の線が出ている、と娘は言います。
説明すれば、左側が一本の線だと理解することは出来るので、教えれば2画で書くことは出来ます。
しかし、娘には、3本の線に見えている、ことには変わりありません。
娘の場合、私が娘の特性を理解した上で、教えることが出来ますが、特に通常学級ではこうはいきません。
おそらく、先生方は「どう見えているか」など気にもしないでしょう。
こういった、先生の言っていることと自分の感覚との僅かなズレのようなものを感じながら授業を受けているお子さんも多いのではないかなと思います。
見ている文字は同じでも、見え方、捉え方が全員同じとは限らないということを知ってもらえたらと思います。
また、記憶することは出来ても、想起に時間がかかるということもわかっています。
想起がうまくいかない、もしくは、時間がかかるので、素早く・正しく書くことが出来ません。
見本を見ながらなら書けますが、全体のバランスは崩れやすいです。
何度書いても見本のようにきれいには書けず、頑張って書いても結局は赤で直しが入り、自分の文字で失敗する経験を多く積んでしまった娘。
次第に、自分の字に自信を持てなくなり、自分の字を他人に見られることや、人前で字を書くことに極端な抵抗を示すようになりました。
勉強への拒否は、能力的な理由というより、過去に理解されずに負った心理的ダメージが大きな要因かなと思っています。
運動の苦手さ
「体を動かす」ことが好きでも、
「体を上手に使える」とは限りません。
でも、学校生活では、体を上手に使うことを求められる場面が実に多いのです。
代表的なものは、やはり「体育」です。
協調運動(粗大)
体育は、国語や算数と違って、合理的配慮を受けにくい傾向があります。
でも、体育も授業である以上、国語や算数と同じだと思うんです。
それに、子供にとっても、走ることやボール遊びなどは身近な運動で、
『早い・遅い』
『上手い・下手』
が子供同士で簡単に比較しやすく、失敗した時の記憶がマイナスなものとして残りやすいです。
現状、体育の合理的配慮と言えば、「見学」が一般的です。
実際、それで子供の心が軽くなることはあると思いますが、必ずしも子供のためになっていないのでは…とも思います。
見学している間、自分には出来ないことを次々とこなしていくクラスメイトを見ている、というのは少なからず精神的な負担があるようにも思えます。
体育が嫌いになる前に、
運動が嫌いになる前に、
その子に合った技術の習得方法や、体を動かすこと・運動の楽しみ方を提示することが大切なのではないか、とも思います。
自転車に乗れない…
これは学校と直接の関係はありませんが、娘は自転車に乗ることが出来ません。
幼稚園の時に、補助輪付きで乗りましたが、粗大運動の苦手さからペダルをスムーズに漕ぐことができませんでした。
さらに、微細運動の苦手さから、指先に力を込めることが出来ず、ブレーキもうまく利かないのです。
ブレーキをグッと握りしめることが出来ず、バランスを崩して転んでしまった経験から自転車へ乗らなくなりました。
小学生になると、放課後、友達との待ち合わせ場所に自転車で行くということも珍しくありません。
「自転車なんて乗れなくても困らないよ!」
「車とか電車があるから大丈夫だよ~」
と言われることもありますが、それは大人の世界での話。
子供にとって、自転車は、行動範囲を広げてくれるとても大きな存在で、大人が考える程、簡単に割り切れるものでもないと思っています。(特に田舎では超重要‼)
微細運動(微細)
より日常生活、学校生活に密接した部分に影響が出やすい割に、【ただ不器用なだけ】と、周囲からの理解を得られにくいです。
理解も配慮も得られにくい部分ではありますが、粗大運動同様に、学校生活に直結していることも少なくありません。
図工・美術の苦手さ
微細運動の弱さがあると、ハサミやテープ、粘土などをうまく扱えないことがあります。
その結果、少数派かもしれませんが、図工や美術の授業への拒否感がある子もいるのではないか、と思います。
小学生の粘土といえば、油粘土。
紙粘土に比べて硬く、娘はこれが本当に苦手でした。
まず、ちぎれない。
好きな形に整えるのも一苦労なので、作品と言えば、いつも「丸い玉」などの塊がほとんど。
絵を描くことにも関係してきます。
描きたい絵が頭には浮かんでいるのに、イメージ通りに描けないのです。
その歯がゆさから、絵を破り捨ててしまうこともありました。
また、娘に付き添って登校していた時、一緒に授業まで受ける機会もあったのですが、
『○年生らしい作品に仕上げましょう』
と言っている先生がいました。
○年生らしい作品
ってなんでしょうか?
感覚、感じ方に、年齢は関係あるのでしょうか?
表現の仕方は人それぞれ違っていいはずです。
もしくは、技法の提示など、具体的な指示の仕方はないのだろうか、と思ったりもしました。
そして、授業で作った物は、しばらくの間、教室や廊下に掲示されることがまた苦痛でもあるのです。
決して本人も作品の出来に納得しているわけではなく、むしろ、娘が絵を破り捨てたように作品を人に見られたくない、飾られたくない、と思う子供もいるのではないかと思うのです。
そんな理由から、図工を拒否する子もいるのでは?と思ったりしています。
体育と同様、図工も子供同士で簡単に比較がしやすく、からかわれやすいです。
大人の知らないところで子供は傷ついていたりすることもあるのではないかと感じています。
道具の選択
微細運動の弱さがある場合、鉛筆、消しゴム、定規、コンパス、笛、などの学校生活で扱う道具も他の子よりも工夫が必要だったりします。
しかし、Twitterを見ていると、けっこうな確率で配慮が受けにくいという現状。
人知れずどうしたらうまく出来るか頭を悩ませている子供がいることや、
そんな子供を支えようと試行錯誤する保護者がいることを、多くの人に知って欲しいと思います。
みんなと違う文房具を使うことはいけないことですか?
シャーペンはダメですか?
竹の定規じゃないとダメですか?
液体のりじゃないとダメですか?
書きやすいノート、下敷きを使うのはズルですか?
子供の学びたい気持ちを奪うのではなく、様々な方法で学ぼうとする気持ちを受け入れて欲しいです。
そして、結果や成果と同時に、頑張って取り組んだ、その気持ちごと評価してくれる学校が増えたらいいなと思っています。
給食当番
協調運動の弱さがあると、給食当番でも大変さを感じる子供がいると思います。
食器を片手に持ち、もう片手でお玉やトングなどの道具を持つ、これだけでも大変です。
さらに、適量を、きれいに、素早く、盛り付けなければなりません。
給食という限られた時間の中での作業は、相当なプレッシャーになるでしょう。
などの配慮があると、失敗体験をせずに、当番に取り組めるのではないかと思います。
行動の背景
子供の行動には必ず理由がある。
なぜ、その行動をしたのか、
行動の背景を知ろうという
大人側の努力が必要だ。
これは、娘の通う療育の先生の言葉です。
私たち大人は、どうしても目に見えている部分だけを見て子供を注意をしたり評価しがちです。
例えば、Twitterでも現役教師のツイートでたびたび議論が巻き起こる
授業中に立ち歩く
教室から出てしまう
妨害行為
学校からすれば、彼らは、
真面目に授業に取り組まない生徒
と見えるかもしれませんが、今回は、少し違う視点で考えてみたいと思います。
授業のレベルが合ってない
ADHDなどのケースももちろんあると思いますが、それ以外にも、授業のレベルがあっていないケースも実は多いのではないかと感じています。
最近は、就学前から習い事や塾に行くお子さんも多く、就学時には既に高いレベルまで習得されている子もいるでしょう。
そういった子供にとって、年齢で区切られた一斉授業のスタイルは、授業時間が長く、刺激も少なく、退屈に感じるものなのかもしれません。
退屈さから気が散ってしまったり、他の子にちょっかいを出してしまい、結果として邪魔をしているような行動になってしまっているケースはないのだろうか?と思うのです。
難しいことは承知していますが、可能ならば、個々の能力に応じて、上の学年の授業に参加(見学)させてもらったり、別プリントなどの対応があったらまた結果は違うのではないかなと思ったりもします。
逆に、理解出来ていないのにどんどん進む授業についていけず、もういいや…と投げやりになって、問題行動をとってしまっているケースもあると思います。
聞いてもわからないからもういいや~
という諦めの気持ちは、授業への参加意欲を低下させてしまいます。
すると、授業中に居眠りやよそ見をしてしまい、
「やる気がみられない」
「授業態度が悪い」
「積極性がない」
などと先生としては問題がある子、と扱われてしまう子もいるのではないでしょうか。
今の時代、年齢だけで勉強の範囲を区切ることにも無理があるのかな、と感じています。
もちろん、どんな理由であっても他人の学びを邪魔していい理由にはなりませんが、起きていること以外の部分にも目を向けることも大事だと思うのです。
指示が正確に伝わっていない
娘がそうなのですが、指示が聞き取れていないかったり、今は何をする時間なのか正確に理解できていないケースもあります。
学校では、一気にいくつもの指示が連続して入ることが少なくありません。
例えば、
皆さんにはこれから●●をやってもらいます。
まず初めに××をして、それが終わったら△△をします。
そこまで終わったら、手を挙げてください。
あ、そこで注意してほしいのは、●●をする時に、□□をしないように!
学校って、こんな感じで指示を出しませんか?
これ、当たり前に大体の子供が対応できているかもしれませんが、同時に複数の処理をするという実はとても難易度の高いこと。
娘は、一部分しか聞き取れていないことが多く、結果的に、全然違う行動をとってしまったりします。
『説明、聞いてなかったの!?』と注意されても、子供からすれば、
『ちゃんと聞いてたし、ちゃんとやったよ!なんで怒られないといけないの!?』となるわけです。
ただ一度に全てを処理できなかっただけで、本人なりに取り組んだことには違いないのです。
そして、この同時に複数の指示が出るのは、特に通常級では日常茶飯事だと思います。
もし、指示が入らない、指示通りの行動がとれない、という生徒や子供がいたら、ふざけているわけでも、話を聞いていないわけでもなく、正しく伝わっていない可能性も考えてみて欲しいなと思います。
大人でも、あれ…次なにやるんだっけ?と忘れてしまうことはあると思います。
口だけで指示するのではなく、黒板に順序が書いてあると、全ての子供が安心して作業に取り組めるのではないかと思います。
最後に…
私は、学校や教員の方々を批判・否定したくて書いているわけではありません。
ただ、実際、娘は当時の担任による誤った対応により、心に傷を負いました。
娘が苦しんでいることを知りながら、「そういう先生だから」と見て見ぬふりをして何も対応してくれなかった学校側に不信感を持ったこともありました。
しかし、現在の担任は違います。
不登校で接する機会が少ない中でも、娘を理解しようと寄り添ってくれています。
校長先生や担任以外の教職員、そして教育委員会までも、娘に対して出来る限りの理解と支援をしてくれています。
これ以上ないくらいに、暖かく見守ってくれているのを感じ、本当に感謝しています。
おかげ様で、少しずつ、先生方との距離は縮まりつつあります。
しかし、だからと言って娘がすぐに学校に復帰できるわけでありません。
「学校」という場で体験した当時の嫌な記憶は、簡単に書き換えられるものでもなければ、なかったことにも出来ないからです。
人生100年時代とも言われる中で、小中の9年間なんて微々たるものでしょう。
しかし、その9年間での経験が、その後の人生を大きく変えてしまう可能性も否定できないのです。
不登校になる子の多くは、そう簡単に次の居場所を見つけられるわけでもありません。
孤独で、つらくて、苦しい道のりを経験し、ようやく外の世界へ踏み出していけるわけですが、それがどれくらい続くのかは誰にもわかりません。
本人でさえも、です。
たかが9年間。
されど9年間。
人としての成長に大きな影響を与える9年間の大切さを、保護者を含めた大人全員が、そして、社会全体が再度知るべきではないでしょうか。
子供たちの現状を知ってもらうことで、教育の在り方を考え直す一つのきっかけになってくれたら嬉しいなと思います。
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