団体活動終了のお知らせ/過去からの学びと今後について。

団体活動終了のお知らせ

2025年2月末をもちまして、団体としての活動を終了します。

ブログとSNSでは、あくまで個人の意見、経験としてですが、これまで通り発信を継続していこうと思います。

以下、私の想いをダラダラと綴ります。お時間のある方は、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

ダブルケアをしていた期間は、社会から隔離された生活で、自分という存在が透明人間になったようでした。

私は、介護をする人として、子供の母親として、確かに必要とされているのに、どこか社会にいなくてもいい人間のように感じることもありました。

だから私は、この活動をすることで、社会との繋がりを持ちたかったのかもしれません。

社会に自分の居場所が欲しかったのかもしれません。

自分はこんなことをしてきたんだよ!と社会に主張したかったのかもしれません。

または、社会から必要とされることで、自分の存在意義を見いだそうとしていたのかもしれません。

しかし、活動を続ける内に、違う道を歩む自分を見てみたい、という気持が強くなってきたことが活動を終了するに至った要因の一つです。⁡


よくここまでやってきたね。⁡
もう頑張らなくても大丈夫。
力を抜いていいよ。
⁡⁡
⁡ある日、そう自分に思えた瞬間があり、自分の背負っている荷物を降ろす時がきたんだなと感じました。

そして降ろしたい荷物として最初に頭に浮かんだのが、この活動でした。⁡
⁡⁡
何かをしなくては…

発信し続けなくては…

という思考が常にあり、自分で感じている以上にプレッシャーになっていたのだと思います。⁡

オンラインだけの活動だったので、実際に地域に出ていけば、やれることはたくさんあるのかもしれません。

細々とでも、続けていけばいつか繋がりが出来て、道が開けるかもしれません。

でも、自分の性格的に、中途半端な状態でいるのが苦手なので、ここで区切りをつけることにしました。⁡⁡⁡

ゆっくり寝たい。

きれいな景色を見たい。

美味しいご飯を食べたい。

笑顔で過ごしたい。

母が亡くなり、これからどう生きたいかを考えた時に頭に浮かんだのは、そんな日常の平凡な願いでした。

ダブルケアで駆け抜けた30代。

あっという間に40代に突入し、人生の折り返し地点とも言われる年齢になりました。

でも、あらゆるしがらみの中で生きてきたこれまでの40年と、

自分の意志で全てを選んでいけるこれからの40年とでは、

意味も、重みも、全く違うものだと思っています。⁡

なので、平凡だけど、これまでどうしても手の届かなかった願いを叶える生活をしたいと思っています。


そもそも、規則正しい生活って、ダブルケアだと、難しいですよね。

生活リズムを崩さないように、

昼夜逆転しないように、

子供や高齢者にはあれこれ手を尽くしますが、ケアラーの生活はどうでしょう?

慢性的な睡眠不足だったりしますよね。

子供や高齢者には栄養のある食事を考えますが、ケアラー自身の食事はどうでしょう?

パンなどの軽食で済ませることも多く、栄養も偏ってしまいますよね。

子供や高齢者が、病気やケガをすれば病院に連れて行きますが、ケアラーが体調を崩した時はどうでしょう?

病院へ行ったり、休んだりする時間はなく、市販薬で痛みや症状を抑えてケアを優先することが多いですよね。

また、身を削って誰かのお世話をすることを、「素晴らしい」とか「鏡のような存在」などと捉える風潮もあります。

本当にそうでしょうか。

誰かの命と向きあうために、犠牲にしていい命や人生など一つもありません。

日本人の「美徳」を捉える感覚を、今一度見直すべき時にきていると感じます。

また、今後は、ダブルケアや不登校等以外にも、自分のこれまでの経験から感じることも発信していけたらと思っています。

例えば、パニック障害や面前DV(心理的虐待)についてです。

私は、20代の時に、ストーカーに悩まされ、パニック障害になり電車に乗ることが難しくなりました。

発作中は、本当に呼吸が止まりそうな感覚になります。

まるで、水の中で溺れているかのように呼吸がうまく出来なくなるのです。

⁡パニック障害の厄介なところは、「完治」が難しいところ。⁡⁡⁡

そもそも「完治」という概念はないのかもしれませんが。
⁡⁡
トリガーとなる出来事や場所から離れていれば発作は起こらず普通に生活できるため、⁡外側からは困難を抱えていることすらわからないし、

仮に知っている人だとしても、しばらく日常を笑顔で過ごしていると「もう大丈夫そうだね」等と思われてしまいやすいのです。

しかし、20年近くたった今でも、私は電車に乗るのは毎回緊張するし、電車に乗る時は必ずペットボトルの水をお守りに持ち歩きます。

⁡動悸や不安感に襲われたら途中下車できるように、快速ではなく敢えて各駅を選んだり、満員電車の時間帯は絶対に乗りません。

⁡たかが電車、されど電車。

見えない障害を抱えながら生きてる人がいることを知って欲しいなと思います。

もう一つの「面前DV」は、幼少期の体験です。

「面前DV」というのは、簡単に言うと子供の目の前で夫婦喧嘩をしたり、暴力をふるうことを指します。

直接子供に手を出していなくても、一方的に暴力を振るわれたり、言葉で罵られる光景を子供が目にすることは、

心理的虐待にあたるとみなされ、人格形成にも少なからず影響があると言われています。

子どもの前での夫婦げんか(面前DV)は、子どもへの心理的虐待にあたります

ということで…私はDVの家庭で育ちました。

父は、アルコールを飲むと暴力的になる人でした。

頑固な石頭で、典型的な昭和の父って感じです。

仕事には毎日行っていたので、アルコール依存症だったのかはわかりませんが、父に暴力を振るわれる母を見ては、止めに入るのが私の役割でした。⁡⁡

幼いながらに、「私には手を出さない。」と私はわかっていたのだと思います。

私に手を出せない父は、怒りを物に向けます。

食器やテレビのリモコンなどが空中を舞います。

一通り怒りが落ち着くと、近くのスナックへ出かけていきます。(当時は飲酒運転の取り締まりも今ほどではありませんでした。)

父が出かけた後で、散乱した部屋を母と二人で片づけるのが日課のようになっていました。

暴れることがわかっていながら、お酒を出さなければいけない母はどれだけ怖かったかなと思うのです。

私の目の前で命を絶とうとする母親を、「一人にしないで」と必死で泣いて引き留めたこともありましたが、

逆に、母が、娘と一緒に…という考えだったら、今の私はいなかったかもしれません。

今日を生きているのは奇跡に近い。

だからこそ自分の命に感謝して、私に残された人生を精一杯生ききる必要があるんだろうと思っています。

⁡高校生の時、車と接触する事故に遭ったのですが、車から降りてきた人は、父と同じお酒の臭いがしました。

そう、飲酒運転です。

偶然にも目撃者がいて、私に非がないことをお家の人に話してあげると言ってくれましたが、父に知られたら…という恐怖が先に働き、「大丈夫です!」とその場から逃げるように去りました。

今だったらとんでもない話だと思いますが、当時は携帯電話を誰もが持っていた時代でもなく、防犯カメラも田舎道にはありませんので、その後、警察から連絡がくることもありませんでした。

幸い、怪我は打撲程度で翌日も普通に登校しましたが、制服から見えるぐらいには傷や痣が出来て、「自転車で転んだ」と親や友達、先生にも嘘をつき、事故の事実を隠し通しました。

もし、母が天国からこれを読んでいたら…母にも怒られそうですね(笑)

でも、これはイレギュラーなことではなく、今現在も、周囲に嘘をつかざるを得ない状況に追い込まれている子供たちが多くいるんだろうと思います。

表情、言葉、行動、服装、様々なところに子供の「助けて」「気づいて」が隠されています。

子供の声なき声、SOSを見過ごしてしまうことがないよう、大人はよく子供を見る必要があるのだと思います。

そして私が20歳の時、父が多額の借金をして家が差し押さえられることになり、母と2人、手に持てるだけの荷物を持って家を出ました。

夜逃げのようなものですね。

家族ってこんなに簡単に壊れるんだな…と感じたのを覚えています。

そこから、私が金銭面、精神面共に母を支える生活が始まりました。

それは母と子の役割が逆転したような関係性で、生きるために働く日々でした。

いつしか、「母を守るために生まれ、生きている」というのが私の認識になっていました。

人生を謳歌する(ように見える)20代の友人たちがとても羨ましくて、私も遊びに行きたいし、親にも甘えたいという気持ちが当時はとても強かったです。

父に対しては、「恨み」という程ではありませんが、複雑な感情をずっと持っていました。

でも母の介護を通して、少しずつ当時の父に対しての感情も癒されていったように思います。

人付き合いが苦手だった父。

お酒にしか頼れなかったのかもしれない…と考えると、毎晩のお酒にも少し理解できました。

多額の借金をした頃は、暴力は落ち着きましたが、言動がおかしくなっていたので、もしかしたら認知症が始まっていたのかもしれない、とも思ったりします。

かといって、暴力が許されるわけではありませんが、父も困っていた、苦しんでいたのかもしれないし、専門家と繋がれたら何か違ったのかもしれないな、とも思います。

父の消息は今も不明なまま。

既に天国に旅立っているなら、ちゃんと改心して、今度は天国の母の尻に敷かれて欲しいな、なんて思っています(笑)

きっと、母は私に父を恨みながら生きて欲しいとは思っていないし、母の最期も、父を恨みながら亡くなったわけではない。

世間に言う「優しくていい父親」ではなかったかもしれないけれど、父がいなければ私という人間はそもそもこの世に存在すらできなかったわけですから、

せめて、天国では仲の良い夫婦、両親でいて欲しいなと思っています。

虐待など家庭で起きる多くの問題は、プライバシー保護の観点から、専門家と言えどもどこまで関わっていいいのか難しい問題だと思います。

しかし、今も、多くの命が失われてしまっています。

命を最優先に考え、積極的に踏み込んでいくことも時には必要だと感じます。

社会の役に立つ人になりなさい。

人から求められなくなったら終わり。

働かざる者食うべからず。

私たちは社会でうまく立ち回るために、当たり前のようにこれらの言葉を受け入れています。

いかにも日本人が好きそうな「協調性」というワードもそうですが、これらの言葉には、

「自分を大切にする」という一番大切なことが抜け落ちているようにも思います。

私の解釈が間違っているだけだとしても、実際、現代を生きる多くの人が、

自分より誰かの期待に応えることを優先して生きてはいないでしょうか?

相手を思いやること、寄り添うこと、歩み寄ることは大切ですが、それは自分を蔑ろにしていいということでは決してありません。

自分を大切に出来るのは、自分だけです。

誰かを大切に出来るのは、健康な自分の心と体があってこそです。

母が亡くなったことで、ようやく自分を第一に考える時間と、心の余裕を持つことが出来た私。

これからは、社会に必要とされるかどうか、誰かから求められるかどうか、ではなく

自分が自分を大切に出来る生き方をしていきたいと思っています。

自分以外の誰かに当たり前に差し出せる優しさを、自分にも同じように与えてあげられる生き方が、これから増えていくといいなと思います。

これまでもマイペースな活動でしたが、今後は更にペースを落とす予定です。

自分の心と向き合いながら情報を発信していけたらと思っています。

ダブルケアは大変だったけれど、ダブルケアを通して繋がれたご縁がたくさんあります。

素晴らしい方々と巡り合えたこと、そして、皆様と共有し合った時間、全てが私の宝物です。

これまで、ダブルケア千葉南の活動を応援して下さった皆様、本当にありがとうございました。

形は変わりますが、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

みゆき

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